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2011年02月02日

思いの丈はいかほど?

(2008年1月掲載)
 
陸氏といえば江東の名士(陸氏は江東の名家四姓(顧・陸・朱・張)の一つ)で、陸遜がこと有名ですが、この陸績は彼のはとこにあたります。
 
本来であれば孫策に殺された父・陸康の後を継いで一族をまとめるはずなのですが、年上の陸遜がその役目を担っておりました。
三国志には「子供の頃から非凡だった」的な記述をされる人が数々とおりますが、陸績もそんな一人。

彼にはこんなエピソードが…。

彼が六歳だったある日、袁術にお目通りした時のこと。
袁術がおやつに出してくれたミカンを、自分の懐に黙って三個入れた陸績。
でも、そんなかさばるものを三つも懐にしてれば何がおきるかは容易に想像出来ちゃいます。
 
ええ、落としましたよ。お辞儀した瞬間にゴロゴロンと。
 
それを見た袁術、チクリとこう言ってやった。
「陸家の若君は、人の家にきてもミカンを懐に隠したりするんかいな?」
そりゃ、袁家ほどじゃないにしても、仮にも名家の息子がミカンをくすねちゃったんですもんね!
 
しかし、陸績は慌てる様子も無くこう言いました。
「母に持って帰りたいと思って…」
それを聞いたハチミツ水君(袁術)は、「コイツは普通の子供と違う!」と感銘を受けたという。

え?それってそんなに感銘受けるもの?
孝行息子とでも言いたかったのかなぁ。
 
ま、袁術の評価だけでは心許ないけど、張昭たちにもその非凡さを認められたくらいなので優れた人物だったのでしょう。
 
しかし、その良さが伝わらない人物がいた!
その名は孫権。はい、ご存じ書記の嫌いな権坊です。
 
思ったことをバシバシ言う家臣に例の如くウンザリ顔。
こうるさいヤツはあっちに行け!とばかりに遠方の地に追いやってしまいます。
本当に大人げないなぁ。
 
もっとも権坊にしてみれば、おっきな目の上のタンコブ(張昭)があるのに、これ以上いい加減にしてくれー!って気分だったのかもしれないケド。
 
で、辺境の地の太守にされちゃった陸績は学者肌の人で、文化的な仕事をしたいと思っていた彼にとっては、場所はさておき軍を率いて駐屯なんて不本意なことでした。
 
彼は自分の死ぬ日を予測すると、あらかじめ自らを祭る辞をつくったといわれます。
享年三十三歳。
 
彼はまたこうも言いました。
「いまより六十年のあと、馬車は轍を一つにし、文字も共通のものとなるだろう。それを目に出来ぬことが心残りである」
彼は、天下が統一されることを予言したのです。

それを自分の目で見ることが出来なかったことを無念と思ったのでしょうか。
   
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noritama594 at 23:43|PermalinkComments(0)

2011年01月13日

虎の子はネズミ

(2006年3月掲載)
 
韓当(かんとう)といえば、孫堅の代から仕える呉の忠臣。 
北の外れの町出身の彼は孫堅にその弓や馬の腕前を認められ、共に各地を転戦し活躍しました。
 
孫策の代になっても江南の諸郡の討伐に参加、山越(異民族)たちも韓当には恐れを抱き、言うことをちゃんと聞いていたらしいです。
 
若き孫策の地盤固めになくてはならない人物の一人ですね。
 
その後も、赤壁・南郡の戦いやらに参加。呂蒙と一緒に戦い魏軍を撃退! 
陸遜や朱然とも戦ったりしてるので、推測するにそこそこ長生きだったんじゃなかろうか? 
 
 
そんな良臣である父の功績を踏みにじったのが、その子供・韓綜(かんそう)。 
父の喪に服していると思いきや、淫乱・無法やりたい放題。。。
 
本来なら罰を受けるはずですが、権坊(孫権)は「韓当はよくやってくれてたし」ということで咎めなかったらしい。 
 
ところがこの韓綜、そんな権坊の思いやりを不気味に思ったのか(笑)、父親の柩を車に積み家族や部下(私兵)数千人を引き連れ、こともあろうに魏に逃げてしまった。
 
魏は魏で、そんな彼を将軍に任じました。
そこでおとなしくしているならまだよかったのですが、こいつは度々呉の国境を犯し、住民を殺したもんだから、そりゃーもう権坊は地団駄踏んで悔しがっていたそうな。 
 
逆賊となった韓綜は、呉と魏の間で起こった東興の戦いで戦死。 
その首は諸葛恪(諸葛瑾の子)によって斬られ、孫権の廟に供えられました。
 
孫権が死んでから僅かの後のことでした。
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noritama594 at 00:05|PermalinkComments(0)

2011年01月05日

我は孫呉の忠臣なり!

(2005年11月掲載)
 
黄蓋といえば呉の古参将の一人。孫堅の時代から仕える忠臣です。
 
彼はなかなか苦労人で、小さい頃にお父さんが死んでしまったということもあり貧しい暮らしをしていました。
 
でも大志を抱いていた黄蓋は薪取りをしつつ勉学に励んでいたそう。
 
そのせいもあってか規律は厳しく、不正を行った役人を死刑に処したりとそこのところは徹底しております。でも、弱い民を保護し、兵士達の面倒もよくみていたので人々になつかれていたそうです。
 
 
黄蓋といえば赤壁の戦いの際の「苦肉の計」でしょうか?
 
これは演義での話しですが、実際火計を進言したりとこの戦での働きは大きかったようです。
曹操軍に偽の降伏をすべく密かに策を進める黄蓋。これは軍中のトップシークレットで、「敵を欺くにはまず味方から」ということで、周瑜に鞭で打たれ半殺しの目にあったりと(笑)、まさしく「老体に鞭打ち」がんばります。
 
その甲斐もあって、あの疑り深い曹操に降伏を信じ込ませます。
 
そしてあの有名な火攻め。船を繋ぎ合わせていた曹操軍は瞬く間に火の海となってしまい、その機に乗じて呉軍は総攻撃をかけます。
 
もちろん黄蓋も大奮闘!が、流れ矢に当たって寒中の水に落ちてしまいます。
 
幸い味方に助けられたのですが、悲しいかな誰も黄蓋とは気付かなかったらしく、何と…
 
 
便所の中に放置されました。
 
 
うぅ、赤壁勝利の立役者となるべき人物にあんまりの仕打ち。。。
 
まぁ、いくら火が燃えてるとはいえ辺りは暗いし、水に落ちてずぶ濡れなので兵卒と判別はしにくかったとは思うのですがー。かわいそうな黄蓋さん。(^^;
 
しかし、さすがに臭かったのか(違)、怪我をしながらも力を振り絞り、「義公(韓当)殿、わしはここだー」と叫んだ!
 
その叫び声がめでたく韓当に届き(そうとうデカイ声だったんだろな)、「この声は公覆(黄蓋)殿だ!!」と声の方へ急いで駆けつけ黄蓋発見♪
黄蓋の姿を見た韓当は涙を流し喜んだそうな。
 
その後、ちゃんと服を取り替えてもらって手当てもしてもらって、めでたしめでたし。
  
さすがに最期の場所が便所じゃ、浮かばれませんからな。。。
  
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noritama594 at 22:22|PermalinkComments(0)

2010年12月23日

名誉という名の傷

(2005年7月掲載)
 
蔣欽と仲良く賊上がりの周泰。
「幼平」という字がちょっぴりかわいく感じられるのは書記だけでしょうか?(笑)
 
彼も呉の中では結構古く、孫策の代から仕えておりました。
 
周泰といえば孫権のお守り役なイメージがありますが、(あれ?無双のせいか。)もともと孫権が彼を気に入って、策兄ちゃんに頼んで自分の配下にしてもらったらしい。こっから周泰の「お守り人生」が始まるんですか?
  
孫策の山越の不服従民討伐の際、孫権もとある砦を任されました。
 
が、若輩者の権坊は(書記は孫権が嫌いなので手厳しい)、防備をおこたりのほほ~んとしておりました。
そこへ敵が突然大挙して攻めてきたもんだから、権坊ピーンチ!
 
と、周泰が颯爽と現れ自分を盾におバカな権ちゃんを守りました。
この時はかなり危ない状態で、あわや周泰は命を落としそうに。権坊がいたく感謝したことは言うまでもありませんです。
 
 
周泰が賤しい家柄だったせいか、その部下達はちーとも周泰の言うことを聞きませんでした。
そこで「よし!」と権坊は立ち上がり、宴会を開きました。
 
にしても、呉ってほんと宴会好きね。。。 ま、その宴会の席で、権坊自ら酌をして皆に周泰の傷を指し示しながら一つ一つ説明をさせました。
そのことで、言うことを聞かなかった部下達も周泰の偉大さを認め、それからはちゃんと言うことを聞くようになりましたとさ。
 
いいとこあんじゃん、権坊! と、いいたいところではありますが、酒癖の悪い彼のことだから、宴会のたびに、「皆に傷を見せてやれ」と周泰に絡んでいたのでは?と心配です。
 
彼については生没年がはっきりしませんが、麦城の戦い(関羽討伐戦)に参加したのが最期のようです。  
   
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noritama594 at 15:56|PermalinkComments(0)

2010年12月19日

父の名誉を守って

(2005年5月掲載)
 
凌統といえば思い出すのが、父の死を巡っての甘寧との確執。
 
江夏を攻めた際、彼の放った矢によって父・凌操が死んだというのは有名な話。
(実際は違ったのかもしれないけど、凌統はそう思っていたよう)
 
甘寧が呉に降ってからもお互い会うことを避けていましたが、呂蒙の家で酒宴が開かれた時、ばったり会ってしまいました。(呂蒙もどっちか一人だけ誘っておきゃぁいいのに)
 
剣舞にかこつけて仇討ちか?!とみんながヒヤリとしたところで、オッサン…いや、呂蒙が止めに入り事無きを得ました。しかし、折にふれて凌統は甘寧の命を狙っていたそうな。
 
実際、彼は過去にも父を侮辱した人を殺めている。もんのすごい父親思いですな。
父が死んだ時、凌統は15歳。悔しさ100倍(?)だったんでしょう。
 
ちなみに、合肥の戦いでは甘寧と共に出陣しており、命を懸けて孫権を守りました。
さすがに戦に乗じて...とまでは考えなかったか。(当たり前です/笑)
 
将来は呉を背負って立つ武将の一人だった彼ですが、29歳の若さで病死してしまいます。
甘寧を斬れなかったことを最期まで悔やんでいたんでしょうか?
 
もしそうだとしたら、ちょっと哀しいですね。。。
   
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noritama594 at 01:53|PermalinkComments(0)