>蜀
2015年10月22日
夜中に爪は切っちゃダメ!
演義98回では、二世がいろいろ登場しました。演義も後半戦ともなると、当然のことながら世代交代が起こります。
まぁ、出来がいいのから悪いのまで様々ですなぁ。興味のある方は、当ブログ記事『親の心子知らず』も読んでみてください。

とてもむさ苦しい髭面&大酒飲みの張飛の息子とは思えません(笑)。
画像は三国演義トランプのです。
この張苞。父親である張飛と関羽が義兄弟の契りを結んでいたので、当然の流れで関羽の息子・関興と義兄弟の契り!
ちなみに、一歳年上の張苞が兄になれと玄徳くんのご命令。自分たちは木登りで決めたくせにー。
という訳で、演義では関興といつも一緒♪
演義トランプも、張苞と関興がダイヤとスペードの4で仲良く一緒♪
演義では、魏との戦の最中に馬ごと谷川へ転落。頭が割れて(!)それが元で死んでしまうのですが、正史では若死にしたとしか書いてない。
しかも、父・張飛よりも先に死んでいるので、跡は次男の張紹が継いだそうな。
義兄弟の関興もこれまた20歳台で死んでしまったので若死にですね。もっとも、こちらは関羽の跡を継いで侍中を務めました。って、関興の記事みたいになっちゃった。
ん?そうなると…。
父の弔い合戦というのは完全に創作ということですな。
でも、亡き偉大な父親たちの後を背負って立つ、という演義的には魅力ある存在だったのだろうと(笑)。
作者も、劉備の兄弟たちを卑怯(かどうかは、さておき)な策で陥れられた恨みを、晴らさずにはいられなかったのかな?
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noritama594 at 17:13|Permalink│Comments(0)
2011年01月29日
亀の甲より…
(2006年9月掲載)
ゲームの影響のせいか、弓の名手といったイメージの強い黄忠。
いや、それ以上にやっぱり、「ジジイ」のイメージの方が先か。(笑)
ま、でも実際、初登場時でかなりお年を召していらしたのですが、「まだまだ若いもんには負けんぞ!」と鼻息荒く、武芸はなかなかのもの。
韓玄の配下時代に、関羽とも剣を交えています。
最初は年寄りとあなどっていた関羽も黄忠の武芸に感心。馬の故障で戦闘不能になった黄忠を見逃します。
その恩に感じ入った黄忠も、空弓を弾いて関羽を逃がします。そのせいで、彼は韓玄に首を斬られそうになっちゃうんですが。(^^;
劉備の配下になってからも、色々な戦で獅子奮迅の活躍をします。
彼の最大の功労は、なんといっても定軍山の戦い!
魏の猛将・夏侯淵を斬って大勝利。(もちろん法正/(。-_-。)ポッ の策謀も鍵になっていたのですが)
やっぱ、夏侯淵も「あんなじじい」となめていたんじゃないのかなぁ。
魏の筆頭将軍である自分に、老いぼれ(失礼)が挑んでくること自体が許せなかったんでしょうな。
張郃の諌めも聞かずに突進しちゃうんですから。。。
演義では、その後の夷陵の戦いで劉備の『老人軽視発言』(笑)に腹を立て敵中に突進。
命を落とします。
恐らくこの時の彼の歳は、70代半ばくらい。
五虎大将の名に恥じぬ最期だったのでは?
noritama594 at 14:39|Permalink│Comments(0)
2011年01月16日
裏切りの代償
(2006年4月掲載)
どさ回り大将の劉備を色々な面で支えてきた麋竺(びじく)。
彼はもともと陶謙に仕えていた人で後に劉備に仕えました。
麋竺の家はお金持ちだったので軍費面で助けたり、妻のなくなった劉備に自分の妹を嫁がせたり。
(麋夫人)
麋竺といえば有名なエピソードが。
旅から帰る途中の麋竺。家の手前数十里のところで、一人の女性に出会いました。
車に載せてくれと頼む彼女を載せて数里行くと、彼女は礼をいい立ち去ろうとしました。
そこで彼女が一言。
「私は天の使いです。これから東海の麋竺の家を焼きに行くところでしたが、あなたが親切にしてくれたことに感謝して、お話するのです」
それを聞いてビックリした麋竺。彼女に止めてくれと頼みますが、彼女は首を縦に振りません。
曰く、「焼かないわけにはいかないのです。だからあなたは馬を走らせて行ってください。私はゆっくり参りますから。真昼に火事が起こるはずです」
そこで麋竺は一目散に家に帰って、大急ぎで家財を持ち出すと、先の女性が言ったとおり真昼に大火事が起こりましたとさ。
麋竺は病気で亡くなるのですが、その原因となったのが弟・麋芳。
麋芳は(蜀の)樊城攻めの際、傅士仁とともに呉に寝返り関羽敗北(敗死)のきっかけとなった、関羽ファンの方々にとっては切り刻んでやりたいくらい憎いであろう人物(笑)。
申し訳なく思った麋竺は、自ら後手に縛って処罰を請います。
(罰を請う場合や、降伏する場合にこういう行為をしていました)
もちろん殿(劉備)は連座の必要は無いといって慰めたのですが、いかんせん真面目な麋竺としてはなんともやるせない。
結局、恥と怒りのため発病し一年余りで亡くなったそうです。
劉備軍一の恩賞と寵愛を受けた彼にとって、「弟の裏切り」は死んでも償いきれないほどの大罪であったのでしょう。
noritama594 at 23:01|Permalink│Comments(0)
2010年12月26日
天下の嶮はいらんかね~
(2005年8月掲載)
益州といえば天然の要塞。
その言葉に違わず険阻な山々に囲まれた土地です。ここが、劉備の拠点となったのは周知のことですね。
そもそも、劉備がこの益州を取ることになったのにはある人物の働きがあります。
その人物とは、張松と法正(7月の書記月旦評に登場v)で、2人とも益州を治めていた劉璋に仕えていました。
ことの発端は、張松の許都訪問に始まります。当時の益州は漢中の張魯の脅威に怯えている状態でした。
そこで脆弱な劉璋が行き着いたのが、「曹操に助けてもらおう!」という選択肢でした。
そんな訳で、使者としてエッチラオッチラ遠く許都まで赴いた張松。
しかし、その容姿のせいもあってか曹操に冷遇されます。
やっぱり、かの時代も容姿は大切だったんでしょうな。あの鳳雛・龐統もその姿の醜さゆえに孫権に遠ざけられてしまいます。(劉備ですら冷遇したくらいですし…)
その腹いせかどうかは知りませんが、劉備に蜀を託そうと心に決めます。
一旦、益州に戻った彼は劉璋に劉備と結託するよう献策します。して、法正を使者として劉備(龐統)と共に着々と益州奪取の策略を練っていったのです。
残念ながら、益州攻略の立役者となったであろう張松は、その実現を見ること無く世を去ります。
劉備の行動に疑惑を抱いた劉璋は、劉備の兵・物資の要求を跳ね除けました。
ここから2人の間に小さな亀裂が生じていきます。
そして、劉備の荊州への撤退。もちろん、これは劉璋を欺く(油断させる)ための策であったのですが、此れに驚いたのが張松。
この時、法正は劉備と共におり、その策を見聞きしていたのですが、張松は益州におり通じておりませんでした。
-劉備、荊州に帰還する-
この情報を聞きつけ、何も知らない張松は「大事の成就目の前に、何故立ち去ろうとするのですか?」と書簡を書きしたためます。
ところが運悪くそれを兄・張粛に見つかり果ては劉璋に斬されます。
当時の通信手段では、手の内を張松に伝える術、もしくは時間がなかったのでしょうか。
その後、劉備軍は益州へ侵攻、劉璋は降伏します。
noritama594 at 15:30|Permalink│Comments(0)
2010年12月23日
馬氏の五常
(2005年7月掲載)
五人兄弟の名前に「常」の文字がついていたことからこう呼ばれた彼等。
全員優秀な人物だったのですが、三国志で知られているのは、
「馬氏の五常、白眉がもっとも善し」と言われた、馬良。(馬季常)
そして、「泣いて馬謖を斬る」の故事で有名な、馬謖。(馬幼常) こっちは馬良の弟です。
2人は劉備が劉表のとこでブラブラしてた時に発見した人物で、諸葛亮などと同様「荊州組」です。
馬良と諸葛亮は義兄弟の契りを結んでいた(又は縁者?)ようで、孔明の相談に乗ったり、呉に使者として派遣されたりと、なかなかの働き者。
残念なことに夷陵の戦いで戦死してしまいます。文官でも戦死しちゃうんだね。
そんなこともあり、諸葛亮は馬謖とも兄弟のように接していました。
実際、成都攻略や南蛮侵攻の際には、よく馬謖の意見を聞いていたようです。
演義一のマジカル・ストーリーな南蛮王・猛獲の「七縦七禽」は、馬謖の言葉に端を発したお話。(かな?/笑)
孔明からは絶大な信頼を得ていた馬謖ですが、劉備はそうは思っていなかったようで…。
死の間際に「馬謖の言葉は実態以上のことを言うから重用してはならぬ。」と、孔明に念押しします。
しかし…あーぁ。
殿の言葉に背いて馬謖を大抜擢しちゃったもんだから、街亭で大敗退。。
彼は兵法に溺れるたちだったんですね。
その結果、泣いて馬謖を斬ったと。 別に斬るこたぁないと思うんですが。
アンチ孔明な書記としては、彼の人選・登用には首をひねってしまいます。
特に、姜維、馬謖ですか。。。(そいえば書記は、姜維もキライ)
noritama594 at 14:47|Permalink│Comments(0)