>三国志全般

2021年06月20日

先生と呼ばせて

私が三国志好きになったきっかけが、某ゲームというのは一部では有名な話ですが(笑)、そこから興味が沸々とわき始め、吉川三国志を皮切りに、三国志演義へ駒を進め、という王道を行くわけですが、
突き詰めるとやはりこれは読んでおかねば的な本が、『正史』であります。
文庫本のくせに一冊千円以上もするなんて…と購入当時もボヤいておりましたが、
全巻揃って私の三国志本棚で燦然と輝いております(大袈裟やな)。

これ、魏・呉・蜀の書に分かれていて全八巻。勝者である魏の書が圧倒的に多いです。って、別に正史の紹介をしたかった訳ではなく、今回は訳者の方。はい、井波律子先生です。亡くなられて一年ちょっと経ちます。

三国志演義は色んな訳者バージョンがあるのですが、私が読んだのはちくまの井波先生訳のもの。
正史の翻訳でも何冊かにその名前が見えます。正史は八巻といいましたが、演義は七巻。
長いだの何だの言いつつ読んでいましたが、それも苦労して訳してくれた訳者のおかげ。中国語なんて読めないしー。

あ、演義に興味がある方は、本ブログの「三国志演義を読もう!」を覗いてみてください。渾身のあらすじ紹介です。

そんなこんなで、三国志の数多の登場人物と共に、井波先生の名前も結構早くから私の頭に刷り込まれておりました。

井波先生の本で、『三国志』を読む、というものがあります。実際に行われたセミナーを元にした本です。
音声を起こして書かれているので、セミナーを受けているような気分で読み進められます。
武将に対する好み(的な発言)が見られるのもセミナーならではですね。先生、私も権坊は嫌いです(笑)。
あ、権坊ってのは呉の孫権のことです。

忘れ去られつつある読書を再開するにあたって、井波先生の本も読んで見ようかなー。


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noritama594 at 21:02|PermalinkComments(0)

2011年02月02日

みんな孟徳新書で学んだ!?

(2008年3月掲載) ※書庫「本嫌いの読書感想文」にも掲載しております。
 
 
タイトルにある「孟徳新書」とは、古の兵法書として有名な「孫子」に曹操が注解をつけたもので、
残存する孫子の中で最も古いと言われています。
つまり、曹操のおかげで今のように孫子が読めるようになったといっても過言ではない!?

これ(注釈)がつけられたのは官渡の戦い後、赤壁の前までの間だと言われてます。

節目節目に曹操のコメントがついています。
ある時は本編の補足、またある時は自分の意見を書き。彼の性格も垣間見れたりします。
 
 そんななかで個人的にウケたものが。
九地篇で、
「それでは是非とも訊ねたい。敵軍が大兵力で整然とした陣立てで攻めてくる場合には、その敵をどのようにして待ち受ければよいのでしょうか?」

という文があるのですが、ここでの注釈がすごい。なんと殿の一言は…
「いい質問をしたな」
 
えー!?それって、ワザワザ書き記すことなん?
この注釈付きの孫子を曹操は部下に配っていたらしい。敵である孫権も読んでいたとの噂もあるほどだ。
みんな、この一文を見てどう思ったのかしら?()
 
そういえば、曹操が実は孫子の一部を書きかえていたという疑惑もありましたっけ。
 
演義の中では張松にあっさりと「孟徳新書(本書のこと)なんて大したことない」と言われちゃってますが。
 
行軍篇では、
「常に最上の選択を心がければ道は開ける」
といってます。
過去の戦いで身をもって経験したことなのかもしれません。
 
ふと、目を引いた曹操のコメント。  
- 大義の無い殺戮はしてはならない -
これを聞いたら意味もなく殺された徐州の人々はなんと思うでしょうね。
  
イメージ 1  孫子曰く、「ポチッとされよ」
 
 


noritama594 at 23:53|PermalinkComments(0)

2011年01月29日

兄弟の始まり

(2007年9月掲載)
 
『蛟龍雲雨を得れば、終に池中の物に非ざる也』
これは周瑜が孫権にいった言葉です。
蛟、龍=劉備を指していて、早い話「アイツを野放しにしとくと危ないっすよ」と諫言したのです。
 
さてさて、めでたく曹操や周瑜といった一流どころに「油断ならんヤツ」と一目置かれた、ドサ回り旅団団長・劉備さん。
彼がアノ大男達(関羽&張飛)をして「兄貴」と呼ばれる様になったのには、実はこんな裏話が…。
 
 
町で出会った三人は意気投合。義兄弟の契りを交わすことになりましたが、誰が一番上になるかでもめにもめた!みんな、「俺が長兄だー」といって譲らなかったのです。
大人気ない人達だなぁ。
 
で、力比べをしようということになりましたが、それは見るからに大耳くん(劉備)にとって不利。
じゃ、木登りで決めようぜ!と張飛が提案。はい、もちろん自分が木登り上手だったからに決まってます(笑)。
 
スルスルと器用に木に登る張飛。
我も負けじと関羽が続く。
劉備はというと…木の根元へスタスタと歩いていきその幹にしがみついている。
 
その様子を見て大笑いの張飛。
「俺の勝ち。俺が長兄だ!」と得意顔。
そこで劉備はしてやったり!こんな質問をした。
 
『この木は根が先にあったのか、それとも枝か?』
 
そんなの根に決まってんじゃん!と張飛。
そう。つまりは根元が先で枝は後。
 
根元にいる劉備が先に生まれたということで長兄、真ん中にいた関羽が次兄、枝につかまっていた張飛は末弟となってしまいましたとさ。
 
張飛、やっぱり頭脳で競うにはムリが…(^^;
  
イメージ 1木の枝でポチッと。 
  
   
 


noritama594 at 15:10|PermalinkComments(0)

美女の作り方

(2006年12月掲載)
 
久しぶりのお話は、あの華佗先生。皆様ご存知の三国一の名医です。 
前にも彼の「神業」のことを書きましたが、それらも霞むほどの「超!神業」をやってのけていたのです。
 
  
しかも、患者さんはあの「三国一の美女」貂蝉さんだというから、もうこれは見逃せない。
 
 
こっそり、彼女のカルテを見てみました。  
 
・処置内容 : 首のつけかえ  
 
…は? それって一体どういうことなんでしょうか?? 
 
絶世の美女といわれた貂蝉ですが、実はとても不細工な娘でした。 
義父・王允が董卓の殺害計画を考えた時には、殺された自分の両親の仇討ちとばかりに貂蝉も喜んで協力を申し出ます。
 
しかしここで問題が一つ。
 
不細工な貂蝉では董卓・呂布が心魅かれるはずがない。王允、いきなり大きな壁にぶつかってしまった! 
折りしも自宅に訪ねてきていた華佗に相談すると。。。
 
 
「心配ご無用。任せとき!」 
と心強い神医・華佗。どこかへ行ったかと思うと、10日後に大きな包みを持ってあらわれた。
 
中から出てきたのは女の首…。 
先生、何やってんですか~っっ!(驚)
 
「これは西施(春秋時代の美女)の首じゃい。墓から取ってきた」
 
は、はぁ…。 
華佗は麻酔薬を貂蝉に飲ませると、早速オペ開始。
 
って、先生、包丁持って何やってんですか~っっ!(泣)
 
「何って、見ての通り…」 
 
そう言うとギラリと光る包丁で貂蝉の首を斬りおとし、換わりに西施の首をつけて糸で縫い付けました。 
あの○ラック・○ャックもビックリ! いや、彼を越えた。。。
  
七日七晩死んだように眠り続けた貂蝉も、八日目には息を吹き返し、目も覚めるような美女に生まれ変わった彼女は、見事に義父の策を実行、悪逆・董卓を死に追いやったのでした。
  
計略の裏には美女あり……いや、名医ありといったとこでしょうか。
  イメージ 1 
優雅にポチッ♪ 
 
 


noritama594 at 14:52|Permalink

2011年01月26日

天罰下る!

(2006年8月掲載)
 
色々な人物が登場する三国志。
人の数だけ、死に様も千差万別。
 
中には死してなお死なせてもらえない人もいたり。
 
 
三国志上、1,2を争う暴虐っぷりを発揮しちゃった董卓。 
何の罪も無い人々を殺したり(しかも残忍な方法で)、都を焼き払ったりと、その悪行を挙げればきりがありません。
 
 
でも、御天道様はちゃーんと見ています。
 
 
あれだけ悪行三昧の董卓も、あえなく義理の息子・呂布に裏切られ殺されてしまいます。 
皆に憎まれ恐れられていた彼の遺体は、もちろん蹴られるわ、踏まれるわで散々な目に。 
そんなことなので、遺体というより肉の細切れ状態になってしまいました。 
 
悪人を弔うのは悪人というわけで、配下の李カクがせっせと遺体探し。 
が、やっと見つけたのはわずかばかりの皮と骨という有様。
 
しょうがないので、香木を削って董卓像を作り遺体の替わりにして葬式をあげました。 
無事に葬儀も終わり、さぁーて埋葬ということになりましたが… 
 
突如、雷鳴と共に土砂降りの雨。みるみる辺りに水が溜まっていきます。
 
その時、ドン!と雷が落ちたかと思うと、その振動で董卓の棺はバラバラに壊れ、像や骨も放り出されてしまいます。
 
その後も三度に渡ってトライしてみますが、そのたびに雷によって棺はバラバラ、わずかな骨や皮も焼き尽くされてしまったのです。 
 
天をここまで怒らせた董卓。 
人間、やっぱ悪いことはしちゃいけません。
   
イメージ 1こっそり、ぽちっ。   
   
   
 


noritama594 at 00:05|PermalinkComments(0)